最近のメルマガで、辛い状況とかを乗り越えた先の未来の話とかちょくちょくしているのですが、その話を読んで「今辛い状況ですが、我慢していれば未来が拓けますよね!」というニュアンスの事を言われました。

一見前向きな言葉ではあるんですが、実はそれを聞いて僕はかなり違和感を持ったんですよね。あなたはどうですか? これ捉え方を間違えると結構ヤバいかもしれない。という話

■望まない結果につながる可能性があるものが「我慢すれば」という意識

何がヤバいかというと、僕がこれまで伝えている内容は、乗り越えた後にステージを上げて望む未来へ進もう!というメッセージなんですが、これは場合によっては全然違う望まない未来になってしまうんじゃないかと思うくらい。

それを生み出しているポイントが『我慢すれば』という言葉(または同じ意味で使う「耐えれば」という言葉)で、乗り越えるのと我慢では全然違います。行動も選択も結果も正反対になるかもしれない。

ちょっと僕の主観的なイメージも入ってるけど、我慢ってのは、耐え忍ぶことや辛抱することを意味しているんですが、すごく受動的な様が浮かんできます。例えば嵐が通り過ぎるのを、ひたすら目と耳を塞いで小さくなって耐え忍ぶ感じなんですよね。

「我慢すれば未来が拓ける」ってのは、我慢すればこの状況が終わる。いまをやり過ごしさえすれば、明るい未来がやってくることを【盲目的に信じている】だけの状態に過ぎない。

ただ我慢すれば◯◯になる!ってのは運任せ

未来が拓けるってのは、どんな状況下であろうと未来に対して何かしらの行動を積み重ねていくことで可能性が生まれるものなので、ただ今の状況を我慢するだけでは、未来が拓ける可能性は高くはならない(というはどうなるかは神のみぞ知るって話ですね)

【我慢すれば】すなわち【未来が拓ける】という状態変化はありえなくて、せいぜい【我慢すれば】もしかしたら、運がよければ、ごく稀に、万、いや億、兆に一つは【未来が拓ける】かもしれない。知らんけど。ってくらい。

だから状況に対して受動的に我慢するだけでは、何も未来はコントロールできないので、ただの運任せってことです

乗り越えるとは、未来のために最善を尽くすこと

僕が何度か言っていた「辛い状況であろうとも、この先の未来が拓けることを【確信】していた」ってのは、根拠もなく盲目的に信じていたのではなく、その状況に対して積極的に働きかけて乗り越えて、自分の未来のために最善と思える行動を積み重ねているから生まれてきた【確信】

【乗り越える】というのは、いまの状況に向き合い最善を尽くす事で、その中にはもちろん我慢する事もあれば、そうじゃないこともあって、何かの決まった行動があるわけじゃないんですよね。未来のために最善を尽くしていく中でいろんな行動や選択をしていくだけ。

辛い状況であっても、【乗り越えていけば(最善を尽くせば)】すなわち【未来が拓ける】可能性が高くなるもの。

そして最善を積み重ねていけば、可能性が高まって未来が拓ける【確信】に近づいていくってことですね。

自分の未来が信じられないのは最善を尽くしてないから

たまに、「自分の未来とか良くなっていくことがイメージできない」「自分の未来が何も信じられない。自信がない」「未来っていうか、いまも信じられない」って、悲壮感たっぷりに何度も言う人はいるんですが、

厳しい言い方をすれば、「最善を尽くしてないから、自分が信じられない」ってことだけなんですよね。または最善を尽くそうとしているつもりでも、余計なことばかり考えたりやったりしているかもしれない。

ちょっと余談にはなるけど、

どこまで最善を尽くせば状況が変わるのかわからないから辛いという状況もあるけど、絶対にやっちゃいけないのは、諦めて最善を尽くすのをやめること。諦めたら試合終了ってやつです。

ただ最善の選択の中には「いまの状況から全力で逃げる」という選択もあります。自分の未来を諦めたくないから積極的に逃げるも十分ありなんですよね。

ちょっと回りくどくなっちゃったけど、

受動的に我慢しているだけじゃ状況は変わらない。自分の未来に対して能動的に最善を尽くす(乗り越える)していけば、未来は必ず変わっていくということを伝えたい。

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